詩人であり、童話作家。
1896年(明治29年)8月27日、岩手県花巻に生まれました。幼少期は鉱物採集に熱中し、家人から「石っこ賢さん」や「石こ賢さん」などと呼ばれました。
旧制盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校、石川啄木は同校の先輩)、盛岡高等農林学校(現、岩手大学農学部)卒業。
稗貫農学校(のちに花巻農学校、現花巻農業高等学校)の教諭をしながら、自然と農民生活で育まれた独特の宇宙的感覚や宗教的心情にみちた詩や童話を書きました。「春と修羅」は生前刊行された唯一の詩集。その後、農学校を退職して自らも開墾生活をしながら羅須地人協会を設立し、稲作指導をしたり、農民芸術の振興に力を注ぎました。
1931年(昭和6年)、東山町の東北砕石工場技師となり、石灰肥料の宣伝販売を担当します。9月、セールスに出向いた東京で急性肺炎に倒れ、帰郷して療養生活に入りました。11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留めました。
1932年(昭和7年)、『児童文学』に「グスコーブドリの伝記」を掲載しました。
1933年(昭和8年)9月21日午後1時半、結核のため死去。享年37歳でした。
画像の案内看板の表記です。
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賢治は、昭和6年ここの工場技師に委嘱されました。賢治の代表作のひとつ「グスコーブドリの伝記」は、この時期に書き上げられたといわれています。冷害から農民を守るために命を投げ出すグスコーブドリの生き方は賢治の理想であり、それは人々の幸せのために精力的に働いた賢治の姿に重なります。
東山賢治の会では、賢治の精神が未来に受け継がれていくことを願い、平成7年、「グスコーブドリの町・東山」を宣言しました。
画像の案内看板の表記です。
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東北砕石工場技師時代の宮沢賢治は、東山町の陸中松川駅から工場までのこの道を何度も往復していました。
そして出張先東京で病にたおれた四十五日目の昭和六年十一月三日、高熱にあえぐ賢治が病床で「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏の暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ」と手帳に書きはじめ、そのおわりを右のように「デクノボーニナリタイ」とむすびました。
ふつう「デクノボー」とは、「役立たず」とか『気が利かない』とか人をののしるコトバとして使われます。だが賢治は、「ホメラレモセズ クニモサレ」ないような、目立たない人を「デクノボー」としているのです。
そして私たちは、この「デクノボー」のほんとうの値うちを理解できるなら、技師時代の賢治の考え方・生き方にまで理解がとどくのではないでしょうか。そのためまず「賢治デクノボーの道」を、技師賢治といっしょに歩かれ、次いでここ「双思堂文庫」に収められている資料でもって、賢治が求めた「ほんとうのほんとう」を究めていただきたいとねがっています。
二○○三年十月 宮沢賢治地方セミナー東山町実行委員会